視線恐怖症の自己視線恐怖または脇見恐怖症は関係妄想を招きがちであると考えている。自己視線恐怖とは自分の視線が他人の反応になにかしら影響を与えているのではないかと考えてしまう症状で、脇見恐怖は、目の脇の視界に入ってきた人間や物に対して意識が向かってしまい、その意識に反応して他人や物、動物が何かしらの行動をとるのではないかと考えてしまう症状だ。
脇見恐怖症、自己視線恐怖症に共通していえることは「自分の意識あるいは存在、視線などが他者および動物、物に影響を与えているのではないのか」と考えている事だと思う。
これは関係妄想に近いものがある。関係妄想とは自分の行為、思考その他が周囲の環境に影響を与えているのではと思うことである。統合失調症ともいえるかもしれない。
では、どうやって関係妄想をしないようにすればよいのか?これには「気にしない」でいることが最もシンプルな解決策だろう。
しかし、気にしないと思えば思うほど「気になる」のが視線恐怖症や脇見恐怖症の方の典型的なパターンだから、この解決策を実行するのには無理があるのかもしれない。
現段階で私が思いつくのは「気になっても仕方ない」と思い、環境に慣れていくしかないと思う。外の世界には(家の中でも)いろいろな生活音が存在する。その一つ一つに慣れて行きながら、最終的にそれらの音が自然に耳に入ってくるようになれば、関係妄想も抱かなくなるだろう。
ただ、咳払いや動物の鳴き声が生活音なのかは微妙だ・・・これら咳払いの類はどうしても生活音というように考えられない。もしこの問題点を克服できたのであれば、咳払い恐怖症や関係妄想も改善するかもしれない。
視線恐怖症は本当に厄介なものである。脇見恐怖症、咳払い恐怖症も同様だ。
私は人と会話するのが好きで、長電話なんかしょっちゅうであった。かつての友達からも「よく喋るな~」と言われていました。
そんなコミュニケーション好きな私が「引きこもり」・・・・。友達と直接会って話をしたい気持ちはあるのだが、その思考のなかに雑念が入ってくる。視線恐怖症の雑念が・・・。
脇見恐怖症の状態で友達に会いに行くことは相当しんどいものです。車は満足に運転できない(ペーパードライバー)なので、電車やバスを使うしかないのですが、この公共交通機関というものが曲者です・・・大勢の他人と同じ空間を共有しているという不思議な感じ。昔は気にならなかったけど、今は「自分のことを見られてやいないだろうか」「咳払いされないだろうか」「今の咳払いは自分に対しての攻撃か」とまで被害妄想、関係妄想がどんどん強くなっていくのです。
こんな辛い思いはしたくない!となり、友達との約束を勝手に破り、また引き篭る・・・この繰り返しです。友達にも愛想をつかされてしまいました・・・全部自分のせいなんですよね。
こんなんじゃダメなのは分かっているけど、脇見恐怖症が発動するのでは?咳払い攻撃されるのでは?そう思うとなかなか電車に乗ることは出来ないです・・・。慣れるしかないのだろうか・・・
咳払い恐怖症、視線恐怖症、脇見恐怖症に苦しむ現在だが、一番厄介なのは咳払い恐怖症のような気が最近してきた。
咳払いとは、私がこうして部屋のなかに引き篭っているあいだも、電車の中、人が集まる場所、外の世界では起こっているかもしれない現象である。
しかし、私の頭の中には、全ての咳払いが自分の周りでしか起こらないもので、自分への攻撃・威嚇と捉えるというパターンが出来上がってしまっている。俗に言う「考えすぎ」という種類のものだ。
だが、実際に咳払いが聞こえない日は無いし、私の予定恐怖(咳払いされるのではという予想から来る恐怖)が強くなり緊張している状態だと確実に咳払いは私の耳が聞こえる範囲で起こる。
こうなるとやっぱり、自分の存在自体が咳払いを引き起こすのではないかという統合失調症のような関係妄想に陥ってしまう。
この関係妄想を断ち切るには一度、咳払いが全く聞こえないような環境に身をおくべきだと思うのだが、現実的な対策ではない。引き篭り、無職の私には引っ越すお金など無いからだ・・・。実家にいる以上、父親の咳払いは毎日聞く羽目になる。関係妄想がドンドン強まっていくようなものだ。たまにふと父親がいなくなればよいのに・・・とまで思う。私自身、人間として末期だろう・・・。
視線恐怖症(脇見恐怖症)、咳払い恐怖症が悪化してから、私は意図的に人を避けるようになっています。
まず、視線恐怖・脇見恐怖の症状が発症して咳払いを受けるのが嫌だということが最も大きな理由。家族、友達の場合にこのようなことが起きるととても欝になります。他人からの咳払いのほうが、もちろん精神的なダメージは受けるけれどもまだ楽な気持ちで入られます。それよりも家族・友達からの咳払いされることのほうがショックに感じます。心理的にとても距離を置かれている気分になります。
次に、私のこのような視線恐怖症などの症状が私と関わるのある人間に伝染してしまうのではないかと思ってしまうことが二つ目の理由です。
伝染というと大げさかもしれませんが、視線恐怖症、脇見恐怖症独特の視線、目の動き方が伝染するのでないかと考えてしまいます。このような考えは私自身の過去の体験から来ていて、私の友人のなかにも視線恐怖症、脇見恐怖症っぽい人が出てきてしまったということがありました。
でも一般の人に言わせれば「考えすぎ」だと言われるでしょう。私自身も視線恐怖症が伝染するなんていう考えは統合失調症っぽいなと思います。ただ、過去の経験で伝染したかのようなことがあったので、それが頭から離れません。どうにかして「視線恐怖症」の伝染うんぬんに関する過去の経験は「ただの勘違い」に過ぎなかったと思うようにするしかありませんね。妄想を強めてしまうと統合失調症が更に強まってしまいますので・・・。
そして、家族や友人が咳払いしても、「しょうがない、仕方ない」と割り切って別な物事に意識を集中していこうと思います。
視線恐怖症が発症して8年、意識的に人を避けてきましたが、現在幸せな人生であるとは言えません。やっぱり自分は人と関わる、会話することが好きなようなのです。だから、割り切って人との接触を活発化させていこうかなと思い始めてきました。
昨日東京へ行ってきて、自分のなかに視線恐怖症、脇見恐怖症、咳払い恐怖症の3つが相当根を張っているのだということを再認識した。
特に「脇見をしてしまったから咳払いされる」という関係妄想が強く、「咳払いされるのが怖い→脇見をしないようにしたい→意識しすぎて余計脇見しやすくなる→咳払いされる」という悪循環の思考が頭の中に常にといっていいくらいあった感じであった。
そのような咳払い恐怖から来る脇見恐怖症とは別に、そもそも視界が脇の方向に広がっていて脇見がちになってしまうこともあった。だが、こちらのケースはほとんど発症しなかった。
むしろ私の場合の脇見は前方からやってくる人間や長時間のあいだ視界の端にいるような人間(電車などでよく発生する)に対してのものである。「そのような人間に対して(咳払いされるのでは?)という警戒心を抱く→脇見発動→咳払いされる」といった場合が多い。このようなパターンは私が勝手に決め付けていることで、本当はどうなのかは良く分からないが・・・
このような私の考察から考えられることは、根っこにある「咳払い恐怖症」をまずは取り除かなくてはならないということだ。咳払いに対する恐怖心を失くすことができれば、脇見が発動する回数も減ってくるだろう。
問題は咳払いへの恐怖心をどうやって取り除くのか、だ。今のところ精神科(心療内科)の医師に相談しても「緊張感を和らげる薬」を処方されるだけである。
そうではないのだ。緊張感をいくら解いても、咳払い恐怖は根っこに存在する。この根っこの部分をどうやって引っ張り出すのか。そこが問題なのである。
咳払いという生理現象が一切無くなってしまうのが一番だが、それは無理である。医者にも現実的な対応策が無いので自分で何かしら考えるしかないのだろうか。
統合失調症の発病率はウィキペディアによると、全人口の1%だそうです。
日本の統合失調症患者数が約734,000人だそうで、そうすると日本の場合は1%いってないですね。実際の患者数が把握されていないのか、ほかに原因があるのかなんだか分かりませんが、1%という発病率は決して小さいものではないなという印象です。
100人に1人。
「もし○○が100人の村だったら」みたいな本ありましたよね?詳しいタイトルは忘れましたが爆。
村の構成員としてしっかり数えてもらえるほど、発病率が高いのだなと感じています。
世の中には実にいろんな病気があります。
病気の程度には大なり小なりありますが、その病気を患っている人にとっては深刻な悩みです。
病気の悩み以外も含めれば、借金だの人間関係だの色んな悩みがたくさんあるでしょう。
そういった悩みを一人一人が何かしら抱えて生きていて、そのことを考えると100人それぞれが色んな悩みを持っていて、そのうちの1人が「統合失調症」の悩みを抱えているというのは割合として大きく思いました。そして自分だけ苦しいんじゃないんだな、とも再認識させられました。
とは言っても、実際つらいし、いなくなりたいと思うこともありますけどね・・・。
両親によく言われるのは「人は皆、何かしらの悩みを持って生きている」ということ。
最初、私は「何で自分だけがこんな病気になったんだ」とばかり言っていました。今もそう思うことがよくありますし、他人の幸せそうな様子を見たときに悔しいやりきれない気持ちがこみ上げることもあります。
でも、自分を悲劇のヒロインだと考えたり、人の幸せをうらやんだりするのは精神的に自分を汚していきます苦笑。日に日に卑屈になっているような気もしますし。そうなると性格まで破綻してしまうことになるので気をつけたいところです。
ある程度、この病気を受け入れて上手く付き合っていく方法を考えて生きていきたいです。
心から相手の幸せを喜ぶ習慣が出来てくるようになるといいんですが汗
そうなれば、人生が明るく、楽しいものになるような気がします。
ストレス耐性について最近良く考えるようになりました。
冷静に自分の病気のことを考えるようになってからのことですね。
外で活動していくには、それなりのストレス耐性が必要で、自分のストレス耐性は低いのではないだろうかと思っています。
人の視線が気になったり、物音にびっくりしたりするのはメンヘラーじゃなくてもあることですよね。
私の場合はその程度が大きいんですよね。
異常なくらい視線を気にするし、物音にも敏感。
また疲れやすくなっているような気がしています。
周囲の視線や物音にビクビクしながら生きていると、とても精神的なエネルギーを消費するのが分かります。外出して遠出したりすると、もうヘタヘタです。
視線や物音を一種のストレスと考えるならば、普通の人はストレス耐性が強い又は視線などをストレスと感じていないのでしょうね。じゃなかったら、会社でデスクワークなんか出来ないですよ。
前職はデスクワークでしたが、病気から来るストレスと仕事のストレスのタブルパンチで、今考えると「良くやったな」と笑。結局クビになっちゃいましたけど爆。
ストレス耐性をどうやって付けていくか。
それは「慣れ」しかないのでしょうか。
でも、大学生の頃、その頃は「ストレス耐性」のことは意識していませんでしたが、視線に慣れる為、訓練はしていました。アルバイトを2つ掛け持ちでやり、サークル活動をし、旅行に行き、合コンに行き笑、出来るだけ外部と接触しようと頑張っていました(あ、勉強していませんね笑)。
しかし、症状は一層悪化していったような印象です。振り返ると。
咳払いが気になりだしたのも、大学生になってからですし。
ただ、生活の充実感はあったので、そういった面では今よりも遥かに心は満たされていたと思います。当時は「毎日が苦しい」と思っていましたけど。
今の方が苦しいです・・・
人間と触れ合って生活すると、人生はやっぱり豊かになりそうです。視線や咳払いがとても怖くてたまらないですが。あぁ難しいっす・・・
先日、2ちゃんねるでなかなか考えさせられる書き込みを見ました。
また2ちゃんか笑。私は2ちゃんねらーですね、すっかり・・・
書き込みを正確には記憶していないのですが、ある一文だけ憶えています。
「人はそれぞれのコミュニティーに属していて、精神疾患の人達は「精神病」というコミュニティーに属してしまっている」
みたいな感じだったと記憶しています。
この書き込みの本意は分かりませんが、要は「精神病の人達は精神病そのものに心が囚われてしまっている」ということなんだなぁと自分は受け取りました。
視線恐怖、咳払い恐怖が常に頭のなかにあって他の物事に心からの興味が持てなくなっている。そんな気がします。実際、私は趣味と呼べる趣味がほとんどなく、メンヘラーになってしまってから外部への興味が薄れていったことは確かで、もはや「悩むこと」が趣味になっている苦笑。
病気のことで頭がいっぱいで、友達のことに関心をあまり持たなくなってしまったのもそうですね。
病気のことばかり考えていると気が滅入りますし、疲れます。思えば心を病み始めるようになってからというもの、朝起きても体がなんとなくダルいという感覚が現在までずっと続いています。目覚めが良くありません。
視線恐怖症や統合失調症と向き合うことはとても大切なことだと思うけれど、あまり悩むことに深入りしすぎるのも良くないのかなと思い始めました。
悩むことが趣味になってしまって、被害妄想をついしまったりと自分の中で悪い思考パターンが循環してしまっていると思うのです。
被害妄想のような悪い思考パターンを断ち切るために、最近は自分で妄想だと言い聞かせて訓練しています。なかなかこれが難しいんですけどね。
咳払いとか周りの物音、反応が脇見恐怖などに対して生じてしまうと考えてしまうのですが、実際にそういった反応が生じたときにやはり被害妄想をしてしまいます。これにハッと気づいて自分で「そんなはずはない。」と思考を修正していく。この作業が苦しく、言葉では上手く言い表せないのですが、とても難しい・・・。
だったら被害妄想の思考を修正していくのではなく、まるっきり別なことを考えて気分を入れ替えるのがよいのか。うーん・・・また病気について悩み始めてきました苦笑。
とにもかくにも、私は精神病に心が囚われてしまっているということを自覚し、すこしでも外部へ興味を持ち、他の物事に関心を持っていけるようにしたいです。
好奇心旺盛な性格だったから、大丈夫なはず・・。
被害妄想を抱くようになってから8年くらいになります。
今日は被害妄想を抱くようになった原因について語ってみたいと思います。
被害妄想をし始めたのは高校3年くらいの頃。大学受験のストレスが重くのしかかっていた頃です。当時は、大学合格に必死だったのでストレスとか意識していなかったのですが、相当なストレスがかかっていたと思われます。
受験生の頃の自分は「自分が大学に受かりさえすればいい」と思っていて、確かに友達にも合格してほしいと思っていましたが、学校の皆が受験のライバルだと考えていました。
自分さえ受かればいい、と。なんて心の狭い人間なのでしょう苦笑。今でも少々、そういった「勝ち気」な性格が残っています。
そのためか、隣の席で授業中にいつも下穿き(でしたっけ?うわぐつ、だったかな)をペタンペタンさせてるヤツがいて、私は思ったわけですよ。
こいつは俺の勉強の邪魔をしているに違いない、と。
あまりにも毎日ずっと授業中続くので、そう確信してしまいました。
うるさいと注意すれば良かったのですが、当時の私は思春期であったためか「クールな自分」を装い笑、気にしない振りをしていました。
周りのクラスメートも注意していなかったので、私だけが注意するのも変かな?と思ったのもあります。これは今も同じですね。咳払いが気になるけど、面と向かって注意するような風潮が無いので困っています・・・。
話はちょっとそれましたが、こうして私はストレスが溜まっていき、次第に色んな些細な物音にまで神経を研ぎ澄ませるピリピリ人間になったわけです。
次第に予期不安の症状が出てきて、次いつ物音が出るのかビクビクしながら生活するようになってしまいました。とくに人の咳払い、犬の吠え声などです。攻撃的な物音にとても弱いです。チキンです。
この物音恐怖症に脇見恐怖症、視線恐怖症が重なり今に至るわけですね・・・。毎日が疲れます。
一つ褒められるべきは、あの状態でよく大学受験を乗り切ったなと笑。就職試験もよくやったなぁと思います。その分、ストレスは相当蓄積しましたけど。
気分転換が下手な自分はストレスが溜まる一方です。視線恐怖症や対人恐怖症でも可能な、いい気分転換方法は無いものか・・。
脇見恐怖症の方なら分かると思うのですが、私は人前に出たり、人を意識してしまうと自分の目のコントロールに凄くエネルギーを消費することがあります。
目がキョロキョロしないように、目に力が入ってしまうんですね。それと同時にどうやら心が緊張していることもここ数年で分かってきました。
で、最近目に力を入れないようにしてみました。言葉で表現するのが難しいのですが、肩の力を抜いて目に入るものをぼーっと見る感じです。一歩引き下がって俯瞰するとでも言うのでしょうか。鏡を見ると、目が据わっています笑。そんな具合です。でも、睨むわけではありません。
思えば脇見恐怖症になる前は、目に力が入っておらずとても自然に眼球をコントロール出来ていました。意識的に相手を見たりするときだけ、眼球をコントロールしているなという感覚がありましたね。
脇見恐怖症になって目に力が入りすぎるようになったことと、自分の緊張状態の因果関係がよく分からないのですが、ここ数日、目に力を入れないように意識することで緊張感がすこしだけ緩和した気がします。心が穏やかになる時間帯も出てきて、落ち着けるようになりました。
といっても家の中での話しですが爆。
外出するときはまだまだ緊張しまくります。なぜだかどうしても目に力が入ってしまうんですね。なんとか力を入れないようにして眼球の動きを本能に任せてみたのですが、自然と周りをキョロキョロと・・・orz
そのことに罪悪感を未だに感じてしまったりします。
しかし、緊張感が薄れることは確かな気がします。これだけでもとても楽になりました。毎日喉の奥に者が詰まったような感じで息苦しかったので・・・。1日の中で数時間でも落ち着ける時間が出来そうな感じです。
この緊張感の薄まった、ぼーっとした感じは抗不安薬を飲んでいるときと近いですね。副交感神経が優位になっているのかもしれません。
従って、脇見状態のときは交感神経がバリバリに優位な状態であると考えられます。そりゃストレスも溜まりますね。でも意識してしまうんですよね。やはり根っこは対人恐怖症、物音に神経過敏な点ああるのかな・・。
あとこのブログを書いているときはとても集中出来ています。物音とかも気になりません。書き終わると元に戻りますけどね爆
「視線恐怖症と咳払いで休職した男」は、脇見恐怖症(視線恐怖症)や咳払い恐怖症、統合失調症の治療・改善に悩みを持つ管理人の日記(ブログ)および精神治療の体験談です。脇見恐怖症、視線恐怖症または咳払い恐怖症、統合失調症の克服に悩みを抱える方が参考になれば嬉しいです。
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